それはそれは美しく。





冬の木の春





本当はね、君のこと殺そうと思ったんだ。だって見られちゃったからさ。
だけどね。
君の手にした椿の花がね、その瞬間にポロって落ちちゃったから。
それ見たら君の首の代わりに落ちたのかなって思えて。
だから、やめたの。

そうあなたは言って、手にしていた刀を鞘に収めてしまった。
血を吸った懐紙は路上に放り投げられる。

ねぇ、君名前は?

とあなたが訊いたので、僕はヤマサと答えた。
あなたは?と訊き返すと、そうだなぁ、じゃあツバキ。と答えた。

そうだね、あなたとこうして話すきっかけができたのも僕の持っていた椿のおかげだ
し、それに何より、あなたの着物に染みた真っ赤な飛沫は、この世の何よりも、咲き
誇る椿に似ていたから。









「ヤマサぁ、ちょっと火にあたらせてくれないかなぁ。」

入り口の引き戸を開けるなり何の遠慮もなしに上がりこんでくるのはツバキだ。
出会った日以来、ツバキは2,3日に1回くらい、顔を見せるようになった。
何しに来ているのかは知らない。
適当に話したり、転寝をしてみたり、こうやって暖をとったり。
僕は僕でそれらに付き合ったり、1人で寝てしまったりする。
だってツバキが現れるのは決まって。

「また夜にほっつき歩いてるからだよ。冬の夜にふらふらするなんてどうかしてる
よ。」
「しょうがないの。」
「知らないけどさ。」

なんで夜に女が1人で歩き回っているのか知らない。
その女が常に帯刀している理由もわからない。
たまにその衣服に椿のような赤い文様をつけてくる理由も知らない。
その文様があるときは、鉄のような匂いを纏っている訳も。

何も話さないし、何も訊かない。

でも知っていることもある。
最近、攘夷だなんだで騒がしいこと。
幕府が用心棒や浪人を擁して攘夷の芽を潰すことに躍起なこと。
夜は、その用心棒たちが攘夷派を狩っていること。
そしてその逆もまた珍しくないこと。

それでも。
何も訊かないし、何も話さない。

最初からそうだから。
僕は何か重大なことを見たわけじゃない。
遠くにある両親の墓参りに行って、あまりにもきれいな満月の日だったから、酒をひ
っかけてきた。
思いの外遅くなってしまったが、とても良い気分だったから、少し遠回りして帰って
くる途中、垣根に椿が茂っている家を見つけて、少し拝借してきた。
寒空の下、咲き誇る大きな花は美しかった。
家族で棲んでいて、そのまま今でも1人で暮らす長屋のすぐ前で影を見たのだ。
地面になにやらこんもりとした黒い影と、そこに広がる黒い海。
そして抜き身の刀を持つ女。
想像はできたが、何かしらを見たわけではなかった。
恨みはないが見た以上は、と女が刀を振りかざした。
瞬間。
手にしていた椿がぽろりと地に落ちた。
そして女は笑ったのだ。

「あれ、ツバキがうちに来るのって何回目だっけ。」
「まだ3回目くらい。」
「なんか昔からいるみたいだね。」
「そうかな。」

そう答えたツバキは、火鉢に目を落として戸惑ったように微笑んだ。
いつもの刀は脇に置かれている。

「今日は早いけど……これから?」
「うん。」

何が「これから」なのかは訊かない。
用を済ませてきたときは訪問がとても遅いし、それに何かしらの痕跡がある。
今日はそれが無かったから、ただ訊ねてみただけだ。

「今日は用事が終わったらまた来る?」
「別にここを帰るところにしてるわけじゃないよ。」

ぱちん、と小さく爆ぜる火鉢を見つめたまま、やっぱり困ったような悲しいような表
情をしてツバキは笑う。

置いてあった刀に手を伸ばし、名残惜しそうに立ち上がる。

「じゃあ、また。」
「今度はいつ来るの?」
「そんなの、今はわからない。」
「じゃあ、また、だね。」
「うん。」

それだけ交わして、無言で草鞋を結い上げる背中をこちらも無言で見つめ、戸が閉ざ
される様を見た。

ツバキはそれから10日10晩姿を見せなかった。










「もう来ないと思ってたけど。」
「期待はずれだったね。」
「っていうよりは期待が叶ったかな。」
「怪しい女を待ってるなんて、君も大概変わり者だね。」

今日も比較的早いうちにツバキは現れた。
姿を見せなかったこの間に何があったのかなんて知らない。
でも、「また」と言って別れた日から、変わったところは見受けられない。

「ヤマサ。」
「何。」
「あたしね、幕府の……――んーん。あたしね、今家が無いの。」
「へぇ。」
「でも暮らせるところはあってね。仲間……とは違うんだけど、同じ仕事してるひと
たちと大きな部屋で生活してるんだ。」
「ん。」
「家が貧乏でね。小さい頃道場に預けられて、剣を学んだの。」
「うん。」
「だから、お父さんやお母さんがいてね、笑ったり怒られたりする『家』って知らな
いの。ただいまとおかえりを言う場所を知らないの。」
「うん。」
「今生活してるところはね、たとえ誰かが二度と戻らなくても誰も心配しない。」
「そう。」
「でもここは、ヤマサはあたしを待っててくれた。」
「うん。」
「これは、家?」
「僕にはわからない。」
「そう……。」
「でも、ツバキが帰って来ていい場所。」
「今までそういう場所がなくて、でも、安心できるこの場所に出会っても戸惑ってた。」
「帰って来ていいよ。あなたが望むなら僕はおかえりって迎える。」
「今日は、ここに帰ってくることにする。ただいま、と言って。」

じゃあ、と言っていつものように刀を手にして、戸の向こうへと歩んだ。

この間の戸惑った表情はそういうことだったのか、と得心する。
それにしてもツバキが自分のことを語るのは初めてだった。

何も知らないけれど、それでもここを帰る場所にしてくれた。
相手をどれだけ知っているかより。
相手とどれだけ付き合っているかより。
安らげたこと。待つことができたこと。拠り所にしてくれたこと。
嬉しいんだ。
ここが家になるのなら、それはあなたのおかげだ。
おかえりと言う場所を得たのだから。






いつツバキが帰って来ても暖まれるようにと、火鉢にくっついて様子を見ていたら、
明け方の寒さに気がつかなかった。
白んできた空が目に入り、時刻を知る。

おかえりと言う相手はまだ帰ってこない。

草履を履きに土間に下りると、あまりの寒さに身が縮んだ。
はぁ、と両手に息を吹きかけ擦り合わせる。

閂も掛けずにおいた戸を引き、まだ闇が残る空の下に出る。

大きな椿が目に入った。

その身から天にまっすぐ伸びる剣はおしべの如く。
そして横たわった中心から八方に広がる赤は花弁の如く。

「ツバキ。」

大きな花にその名を呼んでやる。

とても綺麗に八方に広がる赤は、ツバキが身じろぎすらしなかったからこその美しさ
であり。
そんな静かな、あっけない最期は、ぱたりと落ちてしまう椿のようで。

僕はあなたのことを知らない。
年も、どこから来たのかも、何をしているのかも。
本当の名前すら知らない。

最後の日に知ったのは。
あなたが手に入れられなかったもの。
あなたが欲したもの。

ただそれだけ。

何も知らない僕だけれど、あなたの欲したものを僕も欲していて。
2人で見つけ出せたものがあった。

僕は何もできなかったとは思わない。
だってあなたは帰ってきたじゃないか。
約束した言葉は交わせなかったけれど、あなたは帰る家を胸にここまで来たのだろう?

あの日、落とした椿は、ツバキとなった。
そして、ツバキは大輪を咲かせて椿となった。
美しく美しく。

「おかえり、『つばき』。」