He teaches his name.
「たきちゃーん、まだいるのかー?」
「いるー!」
「もう図書館閉めるぞー?」
入り口の方から伸びてきた声に、滝優生子(タキ ユウコ)は顔を上げる。
もうそんな時間か。
「待って、今おもしろそうな本見つけたところだから。」
「何だそれは。まるでおもしろくない本もあるみたいな言い方だな。」
「違うよ、意地悪だなぁ、みっちゃんは。」
奥の書棚から本を下ろし、窓際に凭れて本を繰っていると、声がすぐ近くまで来て
いた。
「今度はフィクション?」
「うん。これおもしろそうだから。」
「新学期早々から図書館に入り浸るなんて、たきちゃんくらいなもんだよ。」
「部活無いのは今日かテスト期間くらいしかないからねー、高校なんて。」
机に放り出してあった鞄を背負い、入り口近くのカウンターまで本を持っていき、
貸し出し印を押す。
夕方、閉館時間にもなると図書委員も帰宅している。委員ではなくても、常連だけ
あって、印を押すのも手馴れている。
入館中を示す、個人用の図書館IDカードも抜き取り、帰り支度をする。
「じゃ、鍵閉めよ、みっちゃん。」
「まだ1人いるんだよ。」
「あ、ほんとだ。」
今しがた自分が抜き出したカードのほかに、もう一枚カードがあるのが窺えた。
ボックスに入っているので、名前までは見えないのだが。
「浅生先生!閉めるよ!」
司書の三岡真希(ミツオカ マキ)が奥の座席に向かって叫んだ。
そこは優生子がいた書棚からは死角になっているところだったので、気がつかなく
て当然だった。
「……浅生先生……?」
優生子は三岡に聞き返す。
「そうそう。あ、そっか、たきちゃんまだ――」
「せっかく気持ちよく寝てたのに……閉館ですか?」
「無駄に残業する気はないからね。」
「ちゃっかりしてるなぁ、三岡先生は……。」
「どっちが!図書館は寝るところじゃないんだから。」
「いえ、本も借りていきますし、ほら。」
ふらふらと現れた男は、手に持った本1冊を持ち上げて見せた。
「そっか、みんなは知らないんだもんね。」
朝、ホームルームが終わり、授業が始まるのを待つ時間。
優生子が机で本を読む傍ら、南沙知(ミナミ サチ)がその机に体重を預けながら言
った。
本から目を上げて優生子が答える。
「うん。びっくりしちゃった、知らない人がいて。」
「一昨日入学式だったじゃん?出席は新入生だけだったけど。」
昨日の始業式は校長の話だけで、特に新任の紹介はなかった。
始業式を行なう体育館を、その後の、新学年の教科書販売用に、すぐに開けるため
だ。
だから新しく来た教師達を優生子たち、2年生以上は知らない。
「浅生榛久(アソウ ハルヒサ)。今回転任してきて、ウチの弟の担任になったんだ
って。」
「南、大輔くんウチに入学したの?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「知らないよー……もう適当なんだから……。」
そう言って本に再び目線を落とした優生子の顔を、沙知が覗き込む。
「そーれーよーりー!」
「何。」
「いーなー、優生子。顔見たんでしょ?」
「顔?」
「若いって聞いたよ?」
「……あー、浅生先生……?」
「それしかないでしょ。」
本から顔を上げれば、期待に満ちた沙知の顔。
溜息を漏らして視線を逸らす。
「見たけど。」
昨日の放課後、図書館で見た顔、言動を思い浮かべる。
「話したわけじゃないし。若いからって別に……。」
「え~~~。」
「だって――」
「滝優生子!!」
突然呼ばれて会話が止まる。
「2-Cの滝優生子いるかー?」
真っ黒な髪をスポーツ刈より長くして。
背が高すぎるのか何なのか知らないけれど、ドアの桟に軽々と手を伸ばして。
空いた左手はポケットに。
昨日見た顔が、教室の入り口にたって優生子を呼んでいた。
「……浅生先生……?」
その呟きを聞き逃さなかったのが、沙知。
「はーいっ。」
と元気良く返事をして入り口へと走っていく。
呼ばれた本人が行かないわけにもいかないので、渋々後からついていく。
「何ですか、浅生先生!!」
「滝、おまえ昨日、」
その沙知に向かって何の躊躇いもなく話し掛ける浅生。
「滝はあたしです。」
「…………。」
沙知の横からしらっと言ってやる。
当の沙知は、南大輔の姉です、とちゃっかり自己紹介している。
「昨日会ったじゃないですか。」
目を見てさらに言ってやれば、視線を一瞬横に泳がせて思案する。
思い出したのかどうかは知らないが、再びこちらを見下ろして、右手を下ろした。
「滝、おまえ、図書館カード俺のと間違えて持ってったろ、昨日。」
「え。」
確かに、今浅生が右手に持っているカードには『2-C 滝優生子』と記されている。
慌てて席に戻り、本のカバーの隙にしまっておいたカードを取り出してみる。
「あらー……。」
先ほど聞いたばかりの名前がはっきりと印字されていた。
それを手に、もう一度入り口に戻る。
弟をよろしく、とかなんとかいう会話が聞こえてきた。
「すいませんでした。」
そう言って頭を下げれば、目を細めてははっ、と軽く笑われた。
「大して謝ることじゃないだろう。」
笑うことでもないだろう、と思いながら、カードを交換する。
でも、図書館で居眠りしたり、ポケットに手を突っ込んだまま人を呼び出したり、
ちょっと横柄だと思っていた印象とは大分違って見つめてしまった。
カードを交換すれば、ちょうど1時間目開始のチャイムが鳴る。
「今年も数学は斎藤かー。」
と言いながら沙知は席に帰っていった。
「じゃ、すいませんでした。」
「おう。悪かったな、わざわざ。」
と優生子も戻ろうと挨拶をした。
「あ、」
「はい?」
「転任してきた浅生榛久と申します。よろしく。って滝には言ってなかったと思っ
て。」
「……こちらこそ。」
「数学しっかりやれよー。」
後ろ手に図書館カードを振りながら去っていった。
身長いくつあるんだろう……デカイ。
っていうか何か……何だ、あいつ。あたしの数学知ってるのか……。
廊下を遠ざかっていく後ろ姿を見つめていた。
と、その後ろから背を叩かれる。
「ほーい、今年もよろしくなー、滝ー。」
「去年までのあたしだと思わないでください、斉藤先生。」
「お、赤点脱出宣言か?頼もしいな。」
「はっきり言わないでください。」
「さぁ、席につけ。」
出席簿で背中を押される。
カードを握ったまま、ドアを閉めて席についた。
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