「……。」
「痛いんだけど。」
「……。
「離れてよ。」
「……。」
「……。」



~3.安らぐ、場所~

タックルをかましてきたその正体を認めた春緋は、しょうがない、と言わんばかりの表情を作った。

「……ごめんて、」

溜息をついて謝る目線は下向き。
タックルからそのまま背中にぴったりとくっついているのは

「海俐(カイリ)。」
「大事な斎(イツキ)のお客さんに何かしたら僕が許さないよ、ハル。」

春緋よりも頭ふたつ分背の小さな少年。
斎というのは『櫻家』の店主をしている青年のことで、佐倉斎という。
斎と海俐は年にすれば20以上
離れている。
けれどその関係はまるで親子のようであり、親友のようであり、愛し合う者のようである。
誰からみても
ゆるぎない信頼があり、誰にも入り込めない何かがある。
春緋は2人の関係をよく知らない。
春緋がこの『櫻家』に来たのはほんの1ヶ月前。
その時には既に海俐もいた。幼児に毛の生えたような年で、店で働いている様子はないし、
いつも斎にくっついているか
お客さんとじゃれているだけで、手伝う素振りだってない。
春緋にしてみれば、完全に、ただの邪魔なガキである。

そのガキ。
依然として背中に張り付いたまま、いたずらっぽい目で春緋を見上げている。
春緋は完全に見下ろして、ぶっきらぼうに問い掛ける。

「斎さんは?」
「今日はちょっとお出かけ。でもすぐ戻ってくると思うよ。
太助さん、ごめんねー、うちのハルがー。」

氷点下の眼光をものともせず、ひょいっと春緋の背中から顔を覗かせ、客に話し掛ける。
この邪魔なガキは、いつも斎のものらしい着流しをダボダボに着て、
さらにその幼さゆえの可愛げのある
所作で、客から愛されている。
……憎らしいことこの上ない……。

「今までで一番ひどいかもな、茶ァぶっかけられるとは。」
「だいじょーぶ?」
「まぁどうせ雨で濡れてたしな。気にするな。」
「自業自得でしょ。何度も同じこと言わせて。」
「ハルはちょっとは気にしなきゃダメー。」
「そうだよ、もうちょっと可愛げ身につけろよ、ハリー。な、海俐。」
「そうだよ、ハリー。ね、太助さん。」
「だから誰がハリーだ!!お前には熱湯かけてやろうか!?」
「もぅ冗談だよ、ハルー。太助さんまた来てね。市来さんも。」
「おう。偉いな、海俐は。ごちそーさん。」

そういって客は濡れたまま、ちゃりちゃりと小銭を海俐の手に落とし、店を出て行った。
雨は止んだのだろうか。

「ハリーも次はおとなしくしとけよー。」

ちょっとだけ心配してやったことを激しく後悔し、

「そうさせてくれればね。」

と、暖簾をくぐった背中に春緋は投げ掛けた。
後ろ手に軽く振られた手を見て、今日の仕返しも大して効果がなかったことを悟る。

この玻璃は。
そうやすやすと呼ばれるものではなく。見られるものでもなく。触れられるものでもなく。
何があっても守っていかなければならない。

今度はどんな方法で思い知らせてやろうか、と考えながら先ほどのテーブルを片付け始める。
もう冷えてしまった、テーブルに広がった茶を布巾が吸っていく。
その前に、ふ、と伸びてきた手が湯飲みを掴み上げた。

「もう、また喧嘩売ったのね?」
「……アサ姉。」

少し年上の静かな女性。自分とはまるでタイプが違う晨陽(アサヒ)には、
春緋は居心地のよさを覚える。 きっと包んでくれるような優しさが嬉しいのだ。 晨陽は空いた方の手で、自分より少し背の低い春緋の髪を梳いた。そして軽くポンポンと 撫で、手を離す。 持ってきた盆に湯呑みやらの食器を乗せ、 「でも。春緋がここにも慣れてきた証拠だと思えば安いものよ。」 そう言って奥の調理場へ向かう。 調理場への簾をくぐりながら中へ声を掛けた。会話は聞こえていたはずだ。 「ね、リク兄。」 「ん。そやな。」 そう振られて、青年が調理場から注文受け渡しの小窓を開け、店内に顔を覗かせた。 陸斗。斎を除く従業員の中での年長者だ。斎と年もそう変わらない。 少し細い目をさらに細めて、春緋を見る。陸斗の穏やかな物腰もとても安らぐ。 「最初は腐ってたもんなー、ハル。ガリガリボロボロで。睨むし、何も話してくれんかったし 。佐倉に拾われてきたときなー。」
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